いじめという社会問題

 

 1980年代中頃から学校内でのいじめが社会的に注目を浴びるようになり、今日でも重要な社会問題と認識されている。文部科学省の発表によれば、平成26年度の小・中・高等学校及び特別支援学校におけるいじめの認知件数は、18万8,057件である。定義の問題や認知方法の適用の問題が、認知件数に及ぼす影響は大きいが、ここ数年ではいずれの種類の学校でもいじめは微増傾向にある。

  それでは、いじめとはどういう現象なのだろうか。どのような心理メカニズムに基づいて発生するのだろうか。いじめに直接・間接に関わる被害者・加害者・傍観者は、何をし、どのようなことを感じているのだろうか。そして、いじめに対処するためには、大人はどのような心構えで、何をしなければならないのだろうか。さらに、いじめは子どもの世界に特有の現象なのだろうか。

  このようなことを考えるための絶好のテキストが、今回取り上げる中井久夫の論稿「いじめの政治学」(中井久夫『アリアドネからの糸』みすず書房に収録)である。以下では、その内容について見ていこう。

 

 いじめって何?

  長らくいじめは日本特有の現象であるかと思われていた。しかし、そうではない。アメリカ、イギリス、フランス、その他古今東西を通じて普遍的に起こっている現象である。特にいじめが露骨な形で発生するのが、軍隊や学校などに代表される閉鎖的な空間である。 では、軍隊や学校、あるいはその他の閉鎖的な空間に共通しているのは何だろうか。それは、一種の治外法権のもとに置かれている、という点である。中井によれば、いじめの大部分は、学校という場でなければ立派に犯罪を構成する。しかし、戦前・戦中の兵営における下級兵いじめが治外法権のもとに置かれていたような意味で、学校が法の外にあるように多くの人が錯覚してしまっている。いじめはこのように閉鎖的で、独自の支配の論理がまかり通っている領域で起きる。

  では、いじめであるものとないものとはどう区別されるのだろうか。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではないのは明らかだろう。では、両者を区別する基準は何だろうか。中井によると、それは「相互性」である。例えば、鬼ごっこを考えてみよう。最初の鬼がジャンケンで決まり、鬼がその他の参加者にタッチすることで、鬼が交替していくというのが普通のルールだが、それにみなが従っていれば、そこには相互性があることになる。誰もが鬼になる可能性があるからだ。しかし、特定の誰かが鬼と最初から決められており、交替する可能性が摘み取られてしまっていれば、そこには相互性がなくなり、いじめに転化する。荷物を持ち合うことや使い走りでも、相互性があればいじめではない。

 

 

いじめが進行する順序

  ところで、学校現場でのいじめは見えにくいことが指摘されている。それはなぜだろうか。中井によれば、それはある一定の順序にしたがって巧妙に進行していくからである。では、どのような順序で進んで行くのだろうか。「孤立化」、「無力化」、「透明化」の三つの段階を経て、である。

  いじめの第一段階は、「孤立化」である。孤立していない人間は、いじめの標的にならない。そこで、加害者は、立ち直る機会を与えないために「孤立化作戦」をとる。その一つが「標的化」である。誰かがマークされたことが周知され、それにより標的以外の者は安心し、標的から距離を置くようになる。ついで、「PR作戦」が始まる。身体的特徴や癖、穢れや美醜といったことが問題となり、周囲の差別意識に訴えかける。PR作戦は教師などの年長者にも向けられる。年長者がそこで「そういえばあいつにそんなところがあるよなあ」という何気ない一言、うなずき、沈黙などの態度をとると、加害者は見方を得たように思い、傍観者は許しを得た気になる。

  一方、被害者に目を転じると、当初被害者はどうしていじめられるのか、その理不尽さに自分なりの説明を与えようとする。だがPR作戦によって、自身にも自分はいじめられても仕方がないという気持ちを次第に抱き始める。自分がいじめられてしかるべき、醜い、魅力のない、好かれない、生きる値打ちのない、ひとりぼっちの存在であると思い込むようになるのだ。

  孤立化段階において、加害者は、教師を代表する大人世界と子ども世界の両方の世論を終始気にし、見方につけようとする。一方、被害者は、周囲にも自己の仕草や言葉遣い、振る舞いに絶えず気を配っていなければならず、加害者に怯えていなければならない。その結果、被害者は一種の警戒的超覚醒状態に陥り、緊張したときのような生理的反応を示し始める。以上のように、彼がいつどこにいても孤立無援であることを実感させるのが第一段階である。

  第二段階は、「無力化」である。孤立化段階では、相手はまだ精神的に屈服しておらず、反撃の機会を狙っているかもしれない。よって、加害者は、被害者にどんな些細なものでも反撃は一切無効であることを教え、被害者を観念させようと努める。そこで、懲罰的な暴力が振るわれるのである。すると被害者は次第に現状から抜け出そうという反抗心を失っていく。さらに、反抗のみでなく、大人に訴え出ようとすることに対しても懲罰が加えられる。加害者は、孤立化作戦をとおして、大人が自分に手出しできないことがわかっているので、「大人に話すことは卑怯である」という道徳教育を被害者にほどこし、抵抗の意思を削いでいく。

  もっともひどい暴力が振るわれるのがこの段階である。孤立化段階で暴力を振るえば、加害者は世論を敵に回し、逆に自分が孤立する可能性があるが、すでにここではその心配はない。攻撃の対象はすでにひとりぼっちであり、傍観者は口をつぐんでいるからだ。つまり、孤立化作戦は第二段階への準備だったのだ。こうして、被害者は抵抗への意思を失い、加害者に自発的に服従するようになる。

  第三段階は、「透明化」である。一部は傍観者の共謀によるものであるが、ここからいじめは周囲の眼に映らなくなる。いじめが行われていても、自然の一部、風景の一部としかみなされなくなるのだ。さらにはまったく見えなくなることもある。加害者はすでに自発的な服従を被害者から獲得しているので、暴力を振るうことはない。暴力を振るうぞという姿勢さえ示せば相手を屈服させることができるのだ。ここでは、責任を有する大人も言い訳を準備している。「子どもの世界に大人がうっかり容喙してはならない」「自分もいじめられて大きくなった」「子どものためになるだろう」、と。

  この段階において被害者は孤立無縁であり、脱出のために無力である自分がほとほと嫌になっており、自分の誇りを失っている。世界もどんどん狭まっていく。加害者との人間関係がすべてのようになり、大人もクラスメートも遠い存在に感じられる。逆説的なことに、加害者がいない空間のほうが現実感のないように思え、時間的にも加害者との関係が永久に続くように感じるようになるのだ(たとえ、残り何年とわかっていても、子どもは大人よりも単位時間を遥かに長く感じる。客観的に同じ1時間や1年が、主観的には子どものほうがずっと長く感じられる)。

  彼は次第に、その日いじめられなければよいとなり、今日だけは勘弁してやるという加害者の態度が恩寵のように感じられるようになる。被害者は、加害者の気分や些細な表情、仕草に過剰に敏感になり、加害者の感情に隷従する。それにもかかわらず、被害者は大人の前で楽しそうに遊んで見せ、仲良しを誇示することもある。加害者は、被害者が仲間に加わっていることを大人に目撃させるように計らう。しかし、よく見ればこの演出にもかかわらず、被害者の眼は決して笑っていない。子どもの遊びに欠かせないダイナミックさもなく、身体にもこわばりがある。だが、よほど目ざとい大人でなければそれに気づくことはない。つまり、いじめが透明になっているのだ。

  いじめられっ子は、ときには家庭内で暴れることもあるが、多くのケースでは誇りとして「いい子」であり続けようとする。しかし、その最後の誇りが失われそうになったときに行われるのが自殺である。この場合の自殺には、加害者を告発するという意味が込められているのだが、それが起こってしまってからようやく家族や教師が「そういえば、あのときの表情は助けを求めていたものかもしれない」「あのとき救いの手を差し伸べていれば、このようなことにはならなかったのに」と気づくのである。

  以上の三段階を経ていじめのプロセスが完了する。感のよい読者の方は、これを聞いて20世紀の歴史を振り返った時に、その暗黒部分として人間に記憶されているものの縮図であることに気づくだろう。そうだ。強制収容所の縮図なのだ。いじめが進行する三段階は、人間の隷従化の過程なのである。

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浅香 勇貴
1986年生まれ。西南学院大学文学部卒。京都大学文学研究科修士課程修了。 日曜コラムニスト、日曜読書家、日曜大工、日曜社会活動家、通勤電車内思想家、好事家。