加害者になる子どもたち

  さて次に、視点を移動させて加害者について見てみよう。どういうメカニズムで子どもは加害者になるのだろうか。中井によれば、子どもは家族や社会の中で権力を持てないだけ、いっそう権力に餓えている。子どもが家族の中で権利を制限され、権力を振るわれていることが大きければ大きいほど、子どもの飢えは増大する。いじめる側の子どもに関する研究は多くはないが、彼らが研究に登場するのは、家族の中で暴力を振るわれている場合や、発言したくても発言権がなくて無力感に苛まれている場合などである。そのような家庭の子どもの一部はいじめる側になる。(もちろん、すべてではない。むしろ、そのような子どもたちの多くはいじめられる側にまわり、その結果神経症になるケースが多い)。

  いじめっ子になった者はより下位の者がいることによって優越感を得、いじめに合わない子どもはそのこと自体で安心感を抱き、傍観者になる。だが実は、両者ともに次は自分がいじめにあわないか内心不安を抱えている。この不安や恐怖により、いじめは繰り返されていく。

  では、加害者になる子どもは、どこでいじめの手法を身に着けているのだろうか。中井によれば、いじめ側の手口を観察していると、家庭でのいじめ、たとえば配偶者同士、嫉妬、親と年長のきょうだいのいじめ、いじめあいから学んだものが実に多い。方法だけではなく、脅かす表情や殺し文句もである。さらには、なんと、教師の態度からもいじめの方法を学んでいることが観察される。一部の家庭と学校とは懇切丁寧にいじめを教える学校になっている、というのだ。

 

 いじめと政治

  ここまで見てきたことからわかるとおり、いじめという現象は子どもの世界で巧妙かつ露骨な形で現れる。だが、気をつけておかなければならないのだが、いじめを子どもの世界に特有の現象と考えてはならない。このように考えてしまうと本質を見誤ってしまう。

  いじめの本質は、そこに権力が関係しており、したがって、それは本来的に政治的な現象である、ということにある。政治という概念を、個人と個人、集団と集団、あるいは集団と個人との間の権力行為と捉えるならば、子どもの社会も大人の社会と同様に、巧妙に政治化された社会なのである。すべての大人が政治的な権力関係を子ども時代に経験することからすれば、子どもの政治社会のほうが政治社会の原型であり、大人が生きる社会の縮図であるといえるのだ。これが、「いじめの政治学」と題される所以である。

  確かに、暴力が剥き出しの形で現れるのが子どもたちの世界だろう。しかし、いじめを発生させるメカニズムは、あらゆる規模で起こる暴力現象に共通している部分がある。こういった意味で、いじめは何よりも、評者も読者のみなさんも、すべての人間が必ず持っている感情に根ざした政治的な事柄なのである。特殊学校的・軍隊的な現象ではない。今でも、家庭や会社などの中で起こっていることなのである。

  しかし、大人と子どもの世界では、決定的に異なる点がある。それは、子どもの世界には法の適用が猶予されている、という点である。言い換えれば、無法地帯だということになる。子どもを守ってくれる「子ども警察」も、訴え出ることのできる「子ども裁判所」もない。だからこそ、子どもの世界では大人の世界と違って、露骨な暴力が現れるのである。

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浅香 勇貴
1986年生まれ。西南学院大学文学部卒。京都大学文学研究科修士課程修了。 日曜コラムニスト、日曜読書家、日曜大工、日曜社会活動家、通勤電車内思想家、好事家。