いじめへの対策

  それでは、いじめに対して大人はどうすればよいのだろうか。中井は、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)の研究を引用して、安全の確保、孤立感の解消、二度と孤立させないという大人の責任ある保障の言葉、その実行が必要であるという。

  いじめられた子どもは、大人に対して不信感を抱いている。そこで、安全が確保されるまでは根掘り葉掘り事情を聞き出さないことが重要である。一方、被害者がどんな人間であろうと、いじめは基本的に悪であり、立派な犯罪であり、道徳的には被害者の立場に立つと明言する必要がある。そして、いじめのワナの構造の被害者なのであるということを話して聞かせ、罪悪感や卑小感や道徳的劣等感を軽くしてゆくことが目標である。というのは、道徳的劣等感は、いじめられっ子のほうが持っていて、いじめっ子は持たないものだからだ。このように中井は対策案を示す。

 

  著者の個人的なこと

  以上が中井の論旨であるが、本人が書いているとおり、これは精神科医としての治療体験が基になっていることは間違いない。精神科の入院患者には、いじめられ体験を持つ人がうんざりするほど多いということだ。しかし、もっと重要なことは、実は中井自身が戦時中の学童期に陰湿ないじめを受けており、執筆時の初老期まで(おそらく現在まで)その影響に苦しめられてきた、という経験である。

  戦時中、農村部の小学校に入学した中井は、教師から「おまえのような文弱の徒はお国のためにならないから叩き直してやる」と言われ、都市部から疎開してきた抑圧的な上級生から暴力を繰り返し受けている。さらには、他の年少の子どもがいじめられているのを何もせずに傍観し、より激しいいじめを受けることによってその罪の意識への償いをつけようとした。そして自分自身が暴力を振るわないことでなんとか自尊心を維持しようとしていた、という体験をしているのだ。

  この暗い過去が、この論稿の通奏低音として流れており、深い考察の動機となっている。いわば、個人的な体験談に精神科医としての治療体験が接ぎ木される形で考察が進められているのだが、それが記述にリアリティを生み出す要因になっている。

 

 

「抑圧の移譲」

  さて、ここで、筆者が別のコラム(言葉の道具箱①~「抑圧の移譲」と「無責任の体系」)で取り上げた概念を思い起こしてみよう。「抑圧の移譲」という概念だ。これは、政治学者丸山眞男が軍隊生活での実体験から構想したものだったが、その背景や内容が見事なまでに中井のそれと共通しているのだ。

  具体的にどのような点で共通しているのだろうか。まず、戦時中の抑圧体験である。中井は、疎開先で自分がいじめを受けた体験から、丸山は、徴兵され兵営で暴力を受けたことからものごとを考え始めている。上位の者から受けた圧力を下の者に向けて発散する、というのが「抑圧の移譲」であったが、場所は違えど、両者はこの現象を体験しているのである。

  次に、同じひとりの人間が、暴力に関して潜在的・顕在的に被害者であり加害者でありえる、という点でも共通する。そして、沈黙をする、つまり傍観することによって強い罪悪感を覚えた、自分自身では暴力を振るわないことで尊厳を保とうとした、という点も同じである。さらには、戦争に敗れ、社会が変わると抑圧的な人間が急に卑屈になるという光景を両者とも目撃している。

  このことは何を意味するのだろうか。ひとつは、「抑圧の移譲」という現象は、いじめや暴力の加害者と被害者を同時に発生させるメカニズムである、ということだ。これはすでにおわかりいただけただろう。ふたつ目には、戦争は二人が体験したような現象を不可避的に生み出してしまう、ということだ。戦争体験は、国内にいたか前線に派兵されていたか、国内にいれば都市部にいたか農村部にいたか、派兵されていたとすればどこにいたかなどによってまったく異なっている。しかし、共通しているのは、戦争にはいかほどのヒューマニズムもない、そこにあるのは、媚び、へつらい、裏切り、密告、抑圧、暴力などといった人間の負の部分のみだ、ということである。

  グローバル化と新自由主義的な流れがいっそう加速する現在の時代風潮、私たちは、落ち着いて周囲を思いやる心のゆとりを失いつつある。とかくこのような時代には、人間は排他的になりがちである。今一度、他者に対する「共感」や「寛容さ」を見直したいものだ。

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浅香 勇貴
1986年生まれ。西南学院大学文学部卒。京都大学文学研究科修士課程修了。 日曜コラムニスト、日曜読書家、日曜大工、日曜社会活動家、通勤電車内思想家、好事家。