社会を改善するための規範的前提

 さて、以下では社会を改革していく運動という意味での「社会運動」を考えていきたい。その際、昨今の日本を含めた先進国の政治社会状況を見ていて感じられることだが、現在、私たちが共有しておかなければならない規範的な前提が三つあるように思われる。これがなければ短絡的な選択肢が魅力的に見えてしまい、結果は失敗する。

 まずは、「社会をすぐに変えようと思わない」ことである。急速な変化を起こそうとすれば、必ずバックラッシュが発生し、結果的に高いコストを支払うこととなる。フランス革命を振り返ってみよう。革命期の急進派が掲げていたアンシャン・レジーム期の諸特権の廃止、人権の尊重、共和制の樹立と定着、普通選挙、政教分離、公教育の制度化など主張が、完全に不可逆であるといえる状態にまで根付くのにどれだけの時間がかかっただろうか。革命家の意図としては、数年で成し遂げようとしていた。しかし、すぐに反動が起きた。その後も改革と反動を繰り返し、それらの要求が完全に定着するには、およそ100年はかかっている。その間にフランスは、多大な血のコストを払っている。したがって、社会を変えるには中長期的な視野と根気と意志が必要になる。

 共有しなければならない二つ目の規範は、「わかりやすい答えに飛びつかない。安易な二元論を廃する」ことだ。近年の日本を含めた先進国の政治社会状況を見ているかぎり、「自分は被害者であり、相手が加害者である。その加害者を排除すればすべてがうまくいく」という偏狭で独善的な思考方法が跋扈している。友と敵を恣意的に設定し、相手方に「悪魔」というラベルを貼付け、ひたすら藁人形叩きをしている、というのが現在の日本の政治状況だろう。しかし社会は、加害者/被害者、友/敵と簡単に二分できるほど単純にはできていない。この二分法が帰着する先が、民主主義の自己否定としての独裁である。

 確かに、不利益の配分(=利益の削り)が問題となっている状況下で、友敵型の思考がまかり通ってしまうのは仕方のないことともいえる。人は終わりの見えない不安よりも、恐ろしくてもよいので何か結末を求めたがる。しかし、それは必ず失敗する。したがって、現在の人々には、答えがない状態に耐えるという気力が必要になる。そして、立場や価値観を異にする人たちと共通のルールにしたがって、寛容な態度でフェアな対話をするという「共生の作法」も強く求められている。

 三つ目は、「自分以外の誰かが、自分にとって都合のいい状況を作り出してくれる」という幻想を捨てることである。これはフリーライダーの発想であり、瞬時に「強いリーダー待望論」に結びつく。「特定の政治家が私のことを面倒見てくれさえすれば、それでいいのだ」というように。これは甘えであり隷従的態度である。

 一部の発展途上国ではいわゆる「開発独裁」といわれる統治スタイルで経済発展を成し遂げた事例もあるが、それは先進国というロールモデルがあってのことである。高齢化と人口減少、そして経済成長の頭打ちという意味で、先進国のトップを走る日本にはそのような模範解答は存在しない。また、先進国のポピュリスト政治家を見ていると、外野で行動しているうちは魅力的に映るが、一度権力機構の中に回収されてしまうと、内部分裂を繰り返し身動きが取れなくなり、尻すぼみ状態になっていくというのが過去のパターンである。よって、お任せ民主主義もうまくいかないだろう。

 したがって、現状を改善していくために私たちはフリーライダー的な甘えと自発的隷従のメンタリティを廃さなければならない。厳しいようだが、民主主義にはかなりのコストがかかるのだ。「時間がない」という言い訳は通用しない。なぜなら、現状を変えたくない層がもっとも喜ぶのは、「時間がなく、何も考えない人間」が増え、既存の権益が維持されることだからである。彼らにとってもっとも合理的なのは、「民をして依らしむべし。知らしむべからず」という古典的な愚民統治観に基づく戦略を採ることなのである。

社会を改善するための具体的指針

 さて、ここまでは個人が配慮すべき事項を見てきた。そこで確認したように、社会はすぐには変わらないし、そうすべきでもない。またわかりやすい答えに飛びついてはならない。かつ、他人の成果へのタダ乗りも禁じられる。この枠中で、一人の人間にできることは限られている。それゆえに、何か社会的に偉大なことを成し遂げようと考える必要なない。むしろ、社会を改善するには派手さよりも地道さや根気強さが求められるため、長く続けられる範囲内で活動するほうが望ましいといえそうだ。一般に、社会運動といえば、デモ、ストライキ、ボイコット、署名活動、ロビー活動などが想起されるが、そのようなハードな活動に限定する必要はないのだ。社会運動をもう少し広く、現在の社会状況を改善していく運動と考えるならば、普通の人でも日常生活を少し延長したところに活動する領域が開けてくるはずだ。

 では、具体的に何ができるだろうか。現在の社会で最も毀損されているものは、人間の紐帯である。戦後の都市部への人口移動を経て、1990年代からは日本型工業社会が破綻し、雇用が不安定化する。こうしてどのような集団にも包摂されない「自由な」人々が増えてきた。これが貧困と社会的・心理的な不安定さにつながっているのである。とすれば、自分が孤立しないようにすることと、人間を結びつけようとする姿勢が重要になってくる。

 まず、自分が孤立しないようにするためには、帰属を多重にする必要があるだろう。日常の活動範囲が、家と職場(学校)のみでは、関わる人間が固定化され、その結果偏った思考しかできなくなる。それを避けるため、いくつか(も)所属する場所を自分で見つけ出さなくてはならない。自分が住む地域のボランティア活動、趣味のサークルなどどのようなものでもよい。関わり合う人間が多くなれば、自己の偏狭さを批判的に自己吟味する機会が与えられ、次の活動の道が開かれてくる。

 他者と協調する意識も必要だ。世の中には、他者の揚げ足を取ったり、批判ばかりしている人がまれにいる。このような人はあまり集団生活には向かないといわざるをえないが、そこに集まってくるのは同種の人で、ネガティブな集団ができあがる。逆に、協調を旨とするような態度で他者に関わろうとすれば、互いに影響を与え合うことができ、プラスの方向に向かって自己も他者も変化していく。そして、生産的な集団が形成される。

 人間を結びつけるような取り組みも、些細に思えるようなことで十分だ。近隣の住民とあいさつを交わす(=友好姿勢を示す)、買い物難民となっている高齢者をスーパーまで連れて行く、放課後親の帰宅を待つ子どもの面倒を見てやるなど、なんでもよいだろうが、このように現在では市場化されているサービスを地域のネットワークで少し担う程度でもずいぶん社会は変化するだろう。当然、市場でのサービスに対するように質を求めることはできないが、他者とのつながりは得られ、災害時など市場システムが機能しなくなったときに力強さを発揮する。視点を変えれば、全てを市場に依存するのは異常であり、困ったときに脆弱さを露呈してしまう。したがって、現在分断されている個人を縦糸と考えるならば、それを束ねていく人(=横糸)がこれから大量に必要となってくる。

 以上をまとめると、ポイントは、日常生活を犠牲にしない範囲内で、ほんの少し意識を改革し、行動を付け足すことにありそうだ。何も大仰なことを考える必要はない。むしろ持続的な活動が要請されていることを鑑みるならば、分不相応なことを考えないほうが好結果をもたらすだろう。繰り返しになるが、大事なことは、自分の能力と時間の範囲内で、少しでもよいので利他的なアクションを起こすことだ。利他的な行為は、形を変えて必ず自分に返ってくる。そして、このような動きは、小規模ながらもすでにあらゆるところで始まっている。

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浅香 勇貴
1986年生まれ。西南学院大学文学部卒。京都大学文学研究科修士課程修了。 日曜コラムニスト、日曜読書家、日曜大工、日曜社会活動家、通勤電車内思想家、好事家。